2012年07月27日

宮城へ

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ちょうど1ヶ月前、宮城県の石巻・気仙沼へ行きました。

昨年の3月にあった震災後、ずっと「何か自分にできることはないか」と考えてきたのですが、「何も役に立てないのではないか」「行っても足手まといになるのではないか」と足がすくみ、行動を起こすことができずにいました。

今年に入って友人の美容師さんから「宮城にあるグループホームへボランティアカットに行くんだけど、河田さん、カットを終えてきれいになった人たちのポートレート撮ってもらえませんか?」という話をいただき、ぼくもそのプロジェクトメンバーの一員として参加することになりました。

メンバーは6人。美容師さんたちは昨年も同じメンバーでボランティアカットに来ていて
初めて被災地の現実を目にし、言葉を失ってしまったぼくたちに

昨年は信号がまだ消えたままで警察が交通整理をしていたこと、1年で瓦礫の撤去が随分進んだことなどこの1年での変わり様を教えてくれました。

この日も美容師たちは手際よくカットをして回ります。

ぼくたちはカメラを持ちつつ

スタッフの方の

「入所している人の話を聞くだけでも立派なボランティアなんです」

という言葉を思い出し、座っている色々な方の話を聞きました。

若かった頃の思い出話、震災の話、その後1年半に起こったこと・・

様々な言葉が頭の中に降り注ぎました。

たくさん話をして、髪の毛もさっぱりしたホームの方の顔は少年のように輝いて見えます。

ここからがぼくたちの大切な仕事で、輝いた顔にゆっくり語りかけながら1枚1枚大切にシャッターを切りました。

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今回の旅で普段会うことのできない人との出会いもありました。

石巻の「復興民泊」で出会ったのはボランティアのメセさんとカンボジア人のカメラマン、マック。
夜はみんなでお酒を飲みながら

震災2週間後の石巻の光景・これからの石巻
カンボジアで撮影した写真のこと
北京や東京で写真展を開催すること

徒切れることなく、様々な話をしました。


また、2日目に訪れた気仙沼の「海岸亭」という食堂ではオーナーのオノデラさんと意気投合。

生い立ちにはじまり、震災当日の話、
避難所でラーメンの屋台を出したこと、
ボランティアで出会った人々のこと(海岸亭の2回がボランティアの方の無料宿泊所になっていたそうです)

僕たちの頭で消化しきれないくらい多くの、貴重な話を聞かせていただきました。

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そして、目を背けられない消えた街の光景も体感しました。

もっとも衝撃だったのが気仙沼でのこと。

僕たちは何も決めず夕方に気仙沼入り。宿泊する宿を探していたものの、営業している施設はどこもボランティアや震災復興に携わる方で満員でした。

途方に暮れていると

「南気仙沼駅周辺が一番の中心地らしい」ということがわかり、ぼくたちは南気仙沼駅を目指しました。
でも、カーナビに導かれた場所は一面津波で流された何もない場所。

どこが駅かも分からない状態でした。その光景を理解するのに僕たちの思考はなかなか追いつきません。

駅がどこにあったのかが気になり周りを走り回ると、プラットホームらしきコンクリートが見つかりました。
周辺に線路に敷いていたであろう砂利があったのでこれが南気仙沼駅で間違いないと感じました。

でも残っていたのはたったこれだけ。

駅舎も線路も駅前の商店も、何もかもが消えていました。

プラットホームだったであろうコンクリートの上に登り、ホームの先を眺めました。

ここに列車が通っていたんだ、ここから多くの人が仕事に、通学に出発していたんだと思うと、街がなくなることの、とてつもないことを実感として感じました。

阪神大震災でさんざん悲惨な光景を目にしたのは17年前。その時のことをいやでも思い出したし、
改めて、当たり前に日々の生活をできる場があることがどれほど恵まれているのだろうと感じました。


今回宮城に滞在した時間は約40時間。

こんなに多くのことを考えた40時間はこれまでありませんでした。
明日から生きて行くために与えられた時間だったとも思います。

ボランティアカットと撮影は来年以降も継続的に行う予定です。



河田洋祐



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Posted by kawata at 17:11Comments(0)思い入れ